村櫛町紹介

村櫛の歴史

村櫛の歴史(貧しさから抜け出すために)   松下康文

鎌倉時代以前の浜名湖の姿(推定)
鎌倉時代以前の浜名湖の姿(推定)
文化2年(1805年)伊能忠敬 測量図
文化2年(1805年)伊能忠敬 測量図
 「村櫛」といつ頃から言われてきたのだろうか。今から約500年前の明応の大地震(1498年)により注1、浜名湖の今切れ口辺りにあった村が津波により壊滅し、村ごと今の土地に移り住み、「 村越(むらこし) 」から「 村櫛(むらくし) 」となった「村櫛伝説」が有名であるが、鎌倉時代に作られた 吾妻鏡(あづまかがみ) に「 遠江(とおとうみ) の住人 村櫛三郎(むらくしさぶろう) 兵衛尉(びょうえのじょう) 」と名前が出てくることからこの地に住んでいた豪族の名前がもとになったと考えられる。
 村櫛の歴史を遺跡や伝承等から振り返ると、古くからこの地に人々が住み栄えていたことが伺える。北の台地には、縄文時代の「太田遺跡」や浜名湖岸の「湖底遺跡」からは土器片見つかっている。また、「 御山塚(おやまづか) 」と呼ばれている6~7世紀の古墳からは、「 五鈴鏡(ごれいきょう) 」と呼ばれる鏡や 金環(きんかん) 等が出土しており、この地方一帯に大きな力を持っていた豪族の墓と言われている。さらに時代が下がり、正暦4年(993)に備中守「 藤原(ふじわら) 共資(ともすけ) 」が京都から遠江国にきて、後年、村櫛の志津城に住み、その子 共保(ともやす) が井伊家(彦根藩主)の先祖となったと言う伝承も残っている。
 明応地震の前、このあたりは「 村櫛荘(むらくしのしょう) 」という荘園であったと言われている。荘園の区域は、庄内半島から和地、伊佐見地区に及び陸地も今切口まで広がっており、この地域は荘園の中心として大いに栄えたという。
 大いに栄えていた村櫛も、明応の地震により、多くの土地が海底に沈み、僅かばかりの土地と、浜名湖での漁業により生計を立てる貧しい生活をしつつ明治を迎えた。特に安政の地震(1854年)による津波の被害により、困窮対策として、村人の節約精神と共同の考えで生まれた村営の酒専売所は、150年経った今も続いている。
 江戸末期から村人達が「生きるための土地がほしい」として浜名湖の開拓が始まる。個人的な地先の埋立から他地区有力者の援助、村全体の共同事業に発展し、終戦後の食料増産政策としての国営事業まで干拓事業は続いていく。新たに開拓された耕地は水田やウナギの養殖場として利用した。この養殖業は織物業と並び村櫛の二大産業として発展していく。やっと手に入れた耕地も食生活・産業構造の変化から利用されないままになっているのは非常に残念である。
 村人の生活の面では、貧しい生活の中での共同事業として、昭和の初め簡易水道の導入、村営汽船の営業、公民館活動など積極的に取り入れてきた。交通不便地として「陸の孤島」と呼ばれた村櫛も、浜名湖大橋の開通で汚名を返上した。干拓地を利用した「浜名湖花博」も記憶に新しいことである。
 以上簡単に村櫛の歴史を振り返ってみたが、この先人達が貧しさから抜け出すだすために、血のにじむ努力で作ったこの故郷を大事に活用出来ればと思う。

注1:応永13年(1406年)台風による高潮被害説もある。