村櫛町十景
浜松市中央区村櫛町の十景を紹介します。- 大知波石の石垣
- 対岸の湖西市大知波地区から切り出された石で「知波田石」とも呼ばれています。蟻一匹這い出る隙が無い程の石積みに、昔の石工の丹念な仕事と技術の高さが光る石垣です。
村櫛地区には石垣に適する石が無かったため、この石を知波田から運ぶ、帆かけ船が浜名湖を行き交ったと聞いています。
この地は、明治から大正にかけ尋常小学校の敷地として造成され、後に村役場、公民館用地となり、現在は浜松市所有の広場になっています。
- 甚八河原
- 村櫛町の西方に位置し、「ジンパ」の愛称で親しまれ、昔は船が行き交うことも出来た運河です。現在は村櫛排水路として山田川からの流水の排出水路となっています。堤防沿いの道路は散歩やウオーキングコースなど癒しの場となっています。
- 墓地上り坂からの景観
- 北の外れに位置し、小高い山の墓地に向かう途中からは、上の山や家並み、遠くは新居・弁天島が望め、村櫛の中では唯一眺望がきく場所です。
- 浜名湖の夕日
- 村櫛海水浴場から望む夕日は格別でしょう。四季折々に姿を変え、湖面の向こうに沈む夕日を捕らえようとカメラが立ち並ぶこともしばしばです。
昭和40年代には、この海水浴場も水がきれいなこととアサリが豊富なことから海水浴客が押し寄せ、海の家が立ち並び大変な活況を呈していましたが、時代の変化とともに数軒のみとなってしまいました。今はウインドサーフィンのメッカとして年間を通じ若者が集まる場に定着したようです。
- 村櫛小学校跡地
- 大正15年から昭和1年ごろにかけ「上の山」北側の山を切り崩し、小学校用地として造成されました。昭和2年の小学校開校から昭和40年の移転まで、39年間この地を学び舎にしていました。昭和49年には「むらくし荘」がオープン、平成15年閉舘まで「県中小企業いこいの家」として営業されました。現在は浜松市所有地となっていますが「ふれあい広場」の愛称で納涼祭や秋祭りの会場として町民に親しまれています。
- 村櫛酒販売所
- 安政の大地震により村は壊滅的な打撃をうけ、そこで村役はこの難事を乗り越えるため倹約令を出し飲酒を一切禁止しました。しかし数年してヤミ酒が入って来るようになったため、酒の専売所を設け専売とし、一日一戸一合に限り売ることにしました。これが村櫛酒専売所の始まりであり、万延元年(1860年)のことでありました。後に消防組の経営となり、その利益は村づくりのため役だてられました。現在では自治会出資の会社組織となり名称も「村櫛酒販売所」と改められました。店に付帯する酒場は酒屋直営とあって安価に飲め、仕事帰りの左党には格好の憩いの場となっています。
- 東湯(銭湯の名残)
- 明治の大火(民家57戸、143棟消失)の火元が私設の風呂屋であったことから、消防組がこれを教訓に共同浴場を経営、火の面倒をみることにしました。共同浴場は字ごとに東湯・浪花湯・朝日湯の3つが造られそれぞれ集会所を併設していました。時代の変化と共にその役目を終え、浪花湯・朝日湯の2つは解体され、東湯も廃止されて久しく、今はその姿を留めるだけとなっています。
- 八柱神社
- 明治3年八柱神社と改められこの地に移されました。現在の本殿は、明治33年に改築、入母屋造りの拝殿は、明治25年に新築されたものです。
2月には春の大祭、10月には秋の大祭の2度の祭があり、春の大祭には一時途絶えていた「浦安の舞」も復活。秋の大祭は絢爛豪華な神輿の行列や大太鼓の引き回し、手筒花火など、町を揚げての盛大なお祭りが行われています。
- 大日山隨縁寺
- 明治の廃仏毀釈により、村内の全ての寺が姿を消したが、後に村民の強い願いも有って、寺は広沢普濟寺の前身、旧寺嶋隨縁寺の村櫛移転再興と宿蘆寺に預けられていた旧大日堂の大日如来像を本尊に迎え、上の山中腹に建立されました。昭和4年檀徒をはじめ村民の間から浄財をあつめて、現在の地に本堂を建立しました。平成21年には40年ぶりに5回目の御開帳(1週間)が行われました。