村櫛町紹介

村櫛の歴史15

村櫛の寺院について(その3)    松下 康文

 今回は、村櫛町にある随縁寺の再興と共正寺の創建の経緯などにいて述べる。(表1・参照)
 明治政府の宗教政策により村人たちは神道に 宗旨替(しゅうしが) えをしたが、明治の中頃になるとこの政策も落ち着いてきた。古くから大日堂に (まつ) られ村人に崇拝されてきた大日如来像を、 宿廬寺(しゅくろじ) (中区庄内町)から戻して寺院を再興しようとする気運が高まってきた。だが、寺院の再興にはいくつかの大きな壁があった。一つには、この時代の法律では新しい寺院の創建は許されず、他から寺院を移すか、他にある無住の寺を再興するしか方法はなかった。寺の再興をめぐって、寺の再興に賛成する者と、このまま神道でよいという者とで村を二分する対立が起こってしまった。さらに村議会も二派にわかれてしまい、議会が総辞職するまでに発展した。このため、県会議員を務めたことのある柳原時次郎(注1)が仲裁に入り、寺を再興することで話をまとめた。
 その後は、寺の再興に向かって動き出し、 普済寺(ふさいじ) (曹洞宗・中区広沢一丁目)の当時の住職、 金毛全獅((きんもうぜんし) 和尚のはからいにより、寺島村(南区寺島町)の無住状態で寺号だけが残っていた (ずい) 縁寺(えんじ) (注2)が、明治32年(1899)10月、村櫛の地に移されての再興となった。この時、廃仏毀釈で廃寺となった宝谷寺の住職 石門(せきもん) 和尚が、私財をなげうって買い取り、宿廬寺(西区庄内町)に預けられていた大日堂の大日如来像が 須彌壇(しゅみだん) (注3)とともに移された。
(写真1)随縁寺
(写真1) 随縁寺
 随縁寺は、初め村の中央にある上の山の中腹に建てられた。本堂は宿廬寺の 衆寮(しゅうりょう) (注4)を移したもので約24坪程の建物であった。しかも、山の中腹のため土地は狭く、水の便も悪く大変不便であったので、大正11年(1922)に現在の地に移転した。この時、移転した仮本堂が、大正15年(1926)9月の台風で倒れてしまうということもあったが、昭和4年(1929)、間口が七間半、奥行八間の瓦葺きの立派な本堂が完成した。(写真1)
 大日如来像は奈良時代行基の作(天平12年/740)と伝えられていたが、専門家の調査の結果、室町時代のものと推定された。像の高さは83cm、木像、彫眼、褐色漆塗である。ちなみに、大正15年の台風で大日如来像が倒れた際、胎内から竹筒に納められた文書が発見されて、江戸時代初期の貞享二年(1685)に村人が浄財で尊像を修理し、彩色を施したことがなど解明された。
 また、大日如来像の 御開帳(ごかいちょう) は20年目ごとに行われている。最近では、平成21年4月に随縁寺再興110年・本堂再建80年の節目とも重なり、御開帳と併せ 稚児(ちご) 行列などが盛大に行われた。
 随縁寺は、檀家だけでなく限らず村のお寺と言うことで、町民全体に親しまれており、毎年1月末に行われる「大般若祈祷会・厄年祈願法会」は大勢の人々で賑わっている。
(写真2) 共生寺
(写真2) 共生寺
 次に、共正寺について述べる。村櫛小学校の南西の方角に共正寺(写真2)という小堂が建っている。以前は「法雲山共正寺」という日蓮宗のお寺があったが、無住や老朽化のために、平成14年8月に小堂として再建されたものである。小堂の右下に「村櫛開村の創、 共資公(ともすけこう) はこの地に葬られ(御山塚・990年)日蓮大聖人の御縁祖であられることを顕彰して有縁の祖霊に報恩供養塔として昭和28年日康上人より創建された」と記されている。藤原共資(注5)から六代の孫で井伊盛直の第三子正直が (やま) 名郡(なぐん) 貫名(ぬきな) (袋井市)の地を領していたが、正直から三代の重忠が、源平の争乱に際し平氏に加担したとして、源頼朝の怒りにふれて安房国長狭郡東条村 小湊(こみなと) (千葉県鴨川市)へ配流された。その重忠の長子として承久三年(1221)小湊で誕生したのが薬王丸、後の日蓮上人であるとの伝承が残されている。(日蓮の出生地には諸説がある。)
 この寺は、大正8年(1919)、日蓮宗法雲寺(浜松市中区)の当時の住職の日康が、荒れたこの地(御山塚・日蓮様と呼ばれている)を発見し、日蓮を供養するために墓標を建立したことに始まる。昭和29年(1954)、浜松駅前にあった法雲寺の新築に伴い旧本堂を村櫛に移築して共正寺が創建された。ちなみに寺名の共正寺は共資公、 立正(りっしょう) 大師(だいし) (注6)の一字から付けられたとのことである。御山塚の山頂には、昭和30年、藤原 共資公(ともすけこう) 墳墓顕彰記念碑が建立され、翌31年には本殿が落成した。さらに檀家により石段、灯籠などが整備された。
 自分たちの小さい頃、12月に行われた供養祭に、手ぬぐいで包んだお椀を持っていって、おいしい甘酒をいただいたこと、 寒行(かんぎょう) の時、信者たちが打つ 団扇(うちわ) 太鼓(だいこ) (注7)の音が耳の奥に残っている。檀家数は村人など16戸(40名)と言われていたが、現在は数軒しか残っていないという。
 何事も月日が経つと人々の心から遠ざかるという。寺の創建から60年余りが過ぎ、現在の御山塚は、近寄る者もなく荒れはてていることに、郷土の者として大変寂しく思う。

「表1」明寺院の概要
寺名 随縁寺 共正寺
山号 大日山 法雲山
宗派 曹洞宗 日蓮宗
創建年 正長元 昭和29
西暦 1427 1954
再興年 明治32  
西暦 1899  
本尊 大日如来 立正大師
本末寺 広沢山 身延山中本山
普済寺末 法雲寺末

(注1) 「柳原時次郎」、村櫛村の出身、万延元年(1860)生まれ、昭和2年(1927)死去した地方政治家。村櫛村二代目村長。明治23年から明治30年まで県会議員をつとめた。
(注2) 「随縁寺」、普済寺の前身で元は「本能山随縁寺」といい、草創は室町時代の正長元年(1428)に天竜川(馬込川)河畔に創建された。
(注3) 須弥壇、仏像や厨子(ずし)などを安置する壇。
(注4) 衆寮、禅寺で修行する僧の宿舎。
(注5) 藤原共資、村櫛の歴史4参照。
(注6) 立正大師、日蓮の諡(おくりな)。大正11年10月3日、大正天皇から「立正大師」という号が下された。
(注7) 団扇太鼓、仏教で用いられる法具の一種(太鼓)。声をあげて唱題するときにドンドンと打ち鳴らすことで、聴覚的にリズムを整える。日蓮宗・法華宗などで用いられる。