村櫛の歴史12
八柱神社について 松下 康文
今回は町の氏神である八柱神社の歴史、境内の石造物や祭事などについて述べる。八柱神社は町の中心部にあり、昭和40年代ごろまでは、境内には大きな松が何本も残っており「杜」の感じであったが、残念ながら松食い虫のため伐採されてしまった。だが境内は何か静かな落ち着きを感じるところだ。
この八柱神社の創建年等は不明であるが、江戸時代までは、ここから200メートル程南の八柱神社神官・袴田家の邸内に在って八王子寺社(注1)と呼ばれていた。
伝承では、浜名湖と外洋がつながった時の地震(明応7年)と津波により、浜名湖の湖口に祀られていた角避比古神社(注2)が流失し、神社の一部と「幟」が村の西側の岸に流れついた。その時、一緒に村櫛に漂着した者が新たに祠をつくり、従来からの産土神である八王子神とともに祀ったと言われている。今も神社の祭の日には御旅所の入口に「
また、袴田家に残る古文書(1727年)に「八王子大明神は、古い昔盛んであったとき村の南東湊崎に面して鎮座していた。社内は一辺が八町の方形で神領は50石であった。そして敷智庄の村民の氏神として敬拝され、神威もまた盛んで在った。」とある。八王子社は明応の地震・津波以前には広い境内を持っており、村櫛荘の氏神として敬拝されていたことが伺われる。
八王子社は、江戸中期の享保12年(1727)に
明治になり、新政府の神道国教政策による「
(写真1)八柱神社の旧拝殿 |
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境内には、多くの石造物(別表1)がある。一番古いものとしては、寛政5年(1792)の灯籠で、八王子大明神御社燈や牛頭天王御社燈と刻まれたている。また浜松西部地区では一番古い鳥居[文政9年(1826)]や268本に奉納者の名前が刻まれた玉垣などがある。神社の整備については全国的に統一した指導で行われたようで、鳥居・灯籠・狛犬など石造物の配置は、どこの神社も同じようになっている。浜松市の西部地区内の石造物は、明治28年(1895)の日清戦争の勝利から昭和15年(1940)の皇紀2600年記念式典前後の約50年間に特に多く造られている。
(別表1)八柱神社境内の石造物
種類 | 時代 | 西暦 | 記事 |
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鳥居 | 文政9 | 1826 | 明神鳥居、高さ3.58メートル |
灯籠1 | 寛政5 | 1792 | 牛頭天王御社燈、奉納御宝前、郷中安全、稲村友庵講中 |
灯籠2 | 寛政5 | 1792 | 八王子大明神御社燈、郷中安全、稲村友庵講中 |
灯籠3 | 文政4 | 1821 | 常夜灯、村中安全、(一対) |
灯籠4 | 明治29 | 1896 | 奉献征清紀念之燈、従軍者が奉納 |
灯籠5 | 明治32 | 1899 | 献燈、明治戌亥同年者が奉納。 |
灯籠6 | 昭和41 | 1966 | 稲荷、津島の前、袴田重俊、竹田弘吉、松下光雄、藤田善重の名を記す。 |
手水鉢 | 慶応2 | 1866 | 水盤 |
石碑 (社号) |
明治39 | 1906 | 「郷社八柱神社」、徳増籐馬他4名 |
玉垣1 | 明治42 | 1909 | 寄贈者名を刻む。昭和48年補修。 |
玉垣2 | 明治43 | 1910 | 寄贈者名を刻む。昭和48年補修。 |
玉垣3 | 「御即位祈年/玉垣二十四間四尺」と刻む。発起人は金子松次郎。 | ||
石碑(標柱) | 稲荷神社内「厳島神社、本社へ明治7年合併、旧鍵取小林平十郎」と刻む。 (元は上の山の北に鎮座。) |
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石碑 (寄附人名記) |
明治44 | 1911 | 岡部謙の書で「社基○鞏」と刻む。神社基本財産寄付者15名を金額とともに列記する。柳原○一郎が建碑した。 |
狛犬 | 大正10 | 1911 | 浜松市新町の小嶋八朗が奉納した。(一対) |
石碑 (百度石) |
昭和14 | 1939 | 氏子総代藤田長五郎他8名を記す。 |
幟立 | 昭和27 | 1952 | 「奉納氏子安全」と刻む。社司袴田重俊と氏子総代柴田藤次郎他8名を列記する。 |
歌碑 | 昭和53 | 1978 | 奉納者田中のぶ、「帰り来る者には安らぎを 出て発つ者にははげましを 八柱大神 |
(写真2)72年ぶりに修繕された神輿 |
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以上、八柱神社について述べたが、紙面の関係で十分の内容の説明とはならなかったが、少しでも町の神社として関心をもって頂けたらと思う。
(注1) | 八王子神社、牛頭天王には
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(注2) | 角避比古神社、浜名湖は今切口が出来る500年位前までは、浜名川より外海に通じていた。角避比古神社は新居町橋本の浜名川付近にあったとされる。 |
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(注3) | 卜部神道、一般には吉田神道ともいう。室町時代後期に京都の吉田
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(注4) | 廃仏稀釈、仏教を排除しようとする政策や行動のこと。江戸時代末までは
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(注5) | 四座とは、宮座組織一種で、室町時代に全国に広がったという。地震と津波により疲弊した村を立て直すために、村の氏子を四つのグループに分け、座頭、座持たちにより運営され、祭や村のことを決めたという。早朝4時から行われる暁祭には、座頭四名が、それぞれ一桶の造り酒と魚一台(二尾づつ、魚は骨付と骨無しの切身)を神前に献ずる。神前から魚一台下げる時、境内の全ての明かりを消し、二台の切り身は神が食するとして、本殿の左右に投げ捨てられる。古くは境内に集まった氏子は夜明けをまって今年の豊穣と諸々の災害の厄除けを祈願したという。 |
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(注6) | 御輿、昭和16年秋氏子達により新調された。今年72年ぶりに修繕された。 |