村櫛の歴史3
御山塚
古墳と五鈴鏡
松下康文
写真1:村櫛御山塚古墳出土品
|
御山塚古墳について、庄内の歴史(1)(庄内歴史研究会、昭和47年11月発行)には、「明治40年12月に村人により発掘したところ、五鈴鏡(径9.8cm)、金環(径3.3cm)、銀環(径3cm)、直刀、刀装具、耳輪、勾玉(まがたま)類、須恵器(すえき)などがでた。その出土品は県立葵文庫に納められたが、後に東京国立博物館が買い上げた。大和朝廷統一期に勢力を持っていた小国家的豪族の墓であると推定される。」と記されている。村櫛会館の玄関脇のショーケースに「村櫛御山塚古墳出土品」の写真(写真1)が残されている。
また、この古墳を発掘してから関係者の家に不幸が続いたことから、15刀を元のところに埋め戻し供養したという。
出土品の「五鈴鏡」(注1)は、日本独特のもので、他県で腰に鈴鏡をつけ椅子に座る女子埴輪が発見されていることから、神への儀式の中で巫女(みこ)が体をつかって振ることによりならしたものではないかと考えられている。鈴鏡の出土は浜松市内では、千人塚古墳(有玉西町・7鈴鏡)の2例だけと珍しいものである。
図1:庄内の歴史(1)から抜粋
|
この古墳が造られた当時を想像してみると、御山塚の前方には広々とした土地があり、西側には浜名湖と環境の良い郷に人々は暮らしていたと考えられ、この土地の実力者を葬る場所としては最適の場所にあり、この郷の人々に崇められたに違いない。
なお、古墳の埋葬者は小国家的豪族と推定されているが、出土品から見てもこの地方では大きな力を持ち中央集権とのつながりも太かったのではないかと考えられている。
参考に庄内地方の古墳をみてみると、ほとんどが後期(6〜7世紀)に属している(図1)。
古い順にかめ塚古墳(呉松町)、御山塚古墳、根本山古墳群(呉松町)、舘山寺古墳(舘山寺町)、火穴古墳(呉松町)がある。場所は呉松町の東名高速道路沿いに多い。この場所は古くから人が住み、縄文時代の遺跡も多い。かめ塚古墳のみが前方後円墳であり豪族か身分の高いものの墓だと言われている。根本山古墳群は根本山南側一帯に広がり153個もあったというが開墾等で失われ現在残っているのは25個と言われている。このように古墳が多いのは豪族以外に大地主や中地主の墓も含まれ、範囲も和地・伊左見・古人見まで及んだとみられている。
以上、この郷の古墳時代を考えて来たが、天竜川がもたらした肥沃な土地と浜名湖の恵みにより、人々は暮らしやすく、中央との交流も大いにあったことがうかがえる。
(注1) | 銅鏡は弥生時代に中国から輸入され大和朝廷から有力な豪族達にあえられていたが、やがて日本でも造られるようになったものである。鈴鏡は銅鏡の周囲に鈴をつけたもので、4〜10個ついたものが発見されており、例えば5個のものは5鈴鏡という。 | |
(注2) | 古墳時代は4世紀〜7世紀の400年間位と言われ、前期・中期・後期に分類されている。 |