村櫛の歴史7
郷土の在地武士たちについて 松下 康文
(別表1)浜松市史1より |
今回は鎌倉時代の頃から戦国時代にかけて資料に出てくる在地武士などを拾ってみる。
(別表2「郷土の在地武士たち」)
この時代(12世紀中頃)浜名湖周辺にはいくつかの武士の集団があり、村櫛氏のほか三ヶ日には「浜名氏」、引佐には井伊共保の子孫の「井伊氏」、曳馬には「蒲氏」等存在した。(別表1「遠江国の武士」)
村櫛の地名のもとになったと思われる「村櫛氏」の名前が初めて出てくるのは「吾妻鏡(注1)」である。「建長3年(1251)、正月2日、年始の儀、一の御馬、村櫛三郎兵衛尉」と書かれている。鎌倉幕府は毎年元旦より数日にわたり、北条氏をはじめとする有力な御家人が将軍(注2)に対して太刀や名馬・弓矢とともに「
同じ項には、同じく遠江国の在地武士と思われる「遠江六郎教時」や「浅羽左衛門尉次郎」の名前がある。御家人の松下三郎兵衛が村櫛荘内のどこかに住んでいたのかなど、詳しいことはわからないのは残念である。ちなみに、「・・
やや時代が下がり14世紀後半、長く続いた荘園制度も終わりを迎える。地方の武士達は、自分たちの住む荘園の代官を勤める程の力を持つまでになっており、東寺百合文書(村櫛の歴史5参照)に「村櫛惟家、遠江国村櫛荘徳大寺方本家米を年五貫文で請負う(明徳4年(1393)と書かれている。
荘園領主側(東寺)の年貢を請け負う「請負代官」として、在地武士と思われる者をあげると、荘内に土地を所有していた
また、「元中〜文亀(1390〜1503)年間に村櫛九郎の活躍との情報もあるが詳しいことはわからない。
明応7年(1498)、明応の大地震を境にここに住む人々の生活環境は大きく変わっていったと思われる。やがて村櫛荘は解体し大澤氏の支配となり、遠江国の守護も斯波氏から今川氏に代わり、大澤氏は今川氏そして徳川家康の配下となっていく。
この時代、在地武士は大澤氏の配下として各地の戦いに参加している。堀江氏の流れをくむ中安兵部は堀江城主として活躍するが、姉川の戦いで家康の前で討死し、庄内町の「
以上、紙面の関係もあり主な在地武士などを挙げたが知られていない者も多く存在すると思う。
(別表2)郷土の在地武士たち
時代 | 氏名 | 摘要 |
---|---|---|
鎌倉 | 村櫛三郎兵衛 浜名氏 井伊氏 |
吾妻鏡・幕府御家人 三ヶ日、在地武士 井伊氏の子孫 |
室町 | 村櫛九郎 村櫛惟家 左衛門尉氏家 堀江入道 呉松四郎 領家氏 丸山氏 |
南北朝時代の頃に在住、文亀元頃にも活躍 村櫛荘内に本領として安のり名を保有 村櫛氏か 守護斯波氏の被官、村櫛荘代官 村櫛荘、年貢米未納 村櫛荘領家方の子孫(大澤氏?)か 庄内町龍泉寺に墓、「丸山」の小字あり |
戦国 | 井伊弥四郎 山崎権太夫 真瀬将藍 山下七郎右衛門 紅林甚二郎 和田八郎二郎 和田二郎左衛門尉 中安兵衛 野中三五郎 遠藤景誠 |
井伊氏の子孫、志津城を攻める 大澤氏家臣、志津城の守り 大澤氏家臣、志津城の守り 大澤氏家臣、志津城の守り 大澤氏家臣、今川義元より感状 今川方松井宗信の部下 今川方松井宗信の部下 大澤氏家臣、姉川の合戦にて討死、茂山塚 大澤氏家臣、築山御前事件 大澤氏家臣、三方原の合戦で討死 |
(注1) | 吾妻鏡、鎌倉時代に成立した日本の歴史書。鎌倉時代の初代将軍・源頼朝から6代将軍・宗尊親王まで6代の将軍記という構成で、治承4年(1180)から文永3年(1266)までの幕府の事跡を編年体で記す。 | |
(注2) | 将軍、三代将軍実朝が暗殺たあと頼朝の子孫は絶え、京都の朝廷に対抗し、有力御家人たちを抑えるだけの高貴な血統の出身者が必要とされたことから、初めは摂関家の子弟(摂家将軍)次いで皇族(宮将軍・親王将軍)が京都から迎えられて将軍職に就いた。すでに実権は北条氏が握っており、将軍は名目的存在だった。 | |
(注3) | 椀飯、他人を饗応する際の献立の一種。当時の献立は椀飯と打鮑・海月・梅干の3品等を折敷載せて出した。 | |
(注4) | 被官、守護大名に対して主従関係を結んだ従者。 | |
(注5) | 堀江氏、初祖は足利家の支流で越前国坂井郡堀江荘から応永年間(1394〜1427)遠江国にきて堀江氏と称したという。役職は領家職と思われる。 | |
(注6) | 大澤殿、貞治年間(1362〜1367)に丹波国から藤原基秀が堀江にきて城主として住む。大澤氏は地頭職としてきたと思われる | |
(注7) | 呉松入道、呉松地区の在地武士(呉松四郎)か |