村櫛の歴史11
明治の大火と消防組について 松下 康文
今回は明治の大火と村櫛村消防組について述べる。村櫛会館玄関脇のショーケース内に「明治の大火絵図」(図1・注1)がある。この明治の大火は、明治18年(1885)2月10日(八柱神社の春祭りの日)の午前2時頃、村の中央部(私設の風呂屋)から出火し、折からの西風にあおられて東側に延焼した。出火から2時間位で、焼失戸数は57戸、焼失棟数は143棟に及んだという。当時の家屋は、茅葺きの屋根が多く、路地も狭いために類焼も早く火事の被害が大きくなった。この頃の村櫛村の戸数は300戸余りで、その2割が被害を受ける大火事となった。
このほかこの庄内地区の火事の記録として、正徳2年(1712)の内山村の真福寺の火事(28戸が全焼)と、延享4年(1747)の村櫛村の火事(102戸が全焼)がある。
日本の消防組織の始まりは、平安時代(800年代)に御所を守るために禁裡火消が組織されたと言うが詳しいことは分からない。時代は下がり、江戸時代の寛永6年(1629)に、徳川幕府が江戸城を守る為に設けた大名火消と、さらに旗本に火消役を命じた幕府直轄の定火消が万治元年(1658)に設けられた。一般町民を守る町火消として、享保3年(1718)に8代将軍吉宗が町組織として町内から火消の者を出させて店火消を組織させた。翌年吉宗は、これを編成替えして「町火消」いろは47組としている。以後、各大名のひざ元の城下町では江戸に見習い武家火消と町火消がおかれていった。駿府城があった静岡には江戸に次いで全国2番目に元禄元年(1688)に駿府火消が置かれた。また文政8年(1825)百人組合火消という町火消が発足した。しかし、江戸幕府崩壊とともに江戸の定火消を始めとして各地の武家火消しは廃止された。
明治3年(1870)、東京府は消防局を置いて町火消を消防組(注2)に改組した。各地の消防組織は町火消などの江戸時代の組織をそのまま継承され私設の消防組が組織されていった。その後、明治27年に消防組規則が公布されて全国的な統一が図られ、府県知事の管理経営となり公設となっていく。
(写真1)江戸・明治時代の消防ポンプ
龍吐水(りゅうどすい)
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腕用ポンプ
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この村櫛村の火事に、早くも消防組が組織されていた対岸の湖西新所村(注3)から舟で応援にきた。しかし、なにせ遠隔地のために鎮火後の到着となったが、残り火を消すことが出来て村民は安堵したという。この火事により消防組の設立の機運が高まっていった。
村櫛村消防組沿革(注4)によれば、村長以下村の有力者達は、消防組の必要を説いて村内をまとめて、早くも同年12月に名古屋より「龍吐水」(写真1・注5)というポンプを購入して火事に備えた。さらに明治20年3月17日に、「き組」「な組」「に組」の3小組の消防組を設置して、龍吐水2台を購入して各組に配置した。龍吐水の購入代金の100円は全て村から支出して残りの2円は各組に配分して小組の経営費に充てたという。大金を使ってまで火事に備えた防火への村人の意気込みが感じられる。その後、消防組組織は明治28年1月に「き組」「な組」「に組」の名称から「第1部」「第2部」「第3部」と改められた。発足当初の各組の消防夫は組内の16歳以上50歳以下の男性全員と決められ、その数は100名以上120名と決めていたが、大正元年12月に組内の18歳以上40歳までとし、41歳から45歳は予備隊として組織された。なお、大正9年12月には少年消防隊が組織された。さらに大正10年(1921)12月には、大阪森田商会からガソリン車Ⅰ台を3100円で購入し、各部から7名を選抜して1隊とした。
消防組はその後、昭和14年(1939)に警防団(注6)、昭和22年には消防団となり現在に至っている。
このほか村櫛村消防は、発足当初から私設の風呂屋から各組の共同浴場の経営や、明治34年(1901)からは村から酒専売所の経営を引継いだり、昭和に入って簡易水道の施設や経営をするなど、常に村の中核として活躍し大いに村の発展に貢献している。
(図1)「明治の大火絵図(村櫛村 明治18年)」
(注1) | 明治の大火絵図、昭和44年に消防関係の書類凾(しょるいばこ)の中から発見された。 | |
(注2) | 消防組、明治5年(1872)~昭和14年(1939)、消防の機関として市町村に設けた組合。警察の指揮下に属し、組頭、小頭、消防手で組織した。 | |
(注3) | 新所村消防組、明治12年11月、村内の有志により消防組を設置したが、機械器具は殆ど備えていなかった。村櫛村の消防組設立の際、組員3名を派遣するなど、当時は先進消防組として有名だった。 | |
(注4) | 村櫛村消防組沿革、発行日は不明(昭和初期か)、村櫛村消防団発行で、村櫛村消防組が経営する、酒・醤油専売所、共同浴場の沿革の概要が記されている。 | |
(注5) | 「龍吐水」、享保年間(1716~1736)にオランダから渡来したともいわれ、我が国の消防ポンプのはしりといえる。しかし水圧が低く放水量も少なく燃え上がった火を消火できるようなものではなかった。使用方法は、火事場に駆けつけた纏持ちと纏(まとい)に水を掛ける程度であった。この龍吐水は江戸時代中頃から明治10年代にかけて使用されてきたが、明治17年末に国産の腕用ポンプ(写真1)が量産されるようになり廃止された。 | |
(注6) | 警防団、主に空襲あるいは災害から市民を守るために作られた団体。従来の「水火消防」に加え「防空監視」「警報発令」「灯火管制」「警戒・警護」「交通整理」「被災者の応急救護」等の役割を追加して改組された。 |