村櫛町紹介

村櫛の歴史13

村櫛の寺院について(その1)    松下 康文

 江戸時代の各村には多くの寺院や仏堂があったという。現在、庄内地区には7つの寺院とわずかな仏堂が残るのみである。「別表1」なぜ、寺院が減少し寺院のない町が出来たのか、今回は村櫛地区を中心に、寺院の歴史と幕末・明治期に行われた廃仏稀釈運動について述べる。

「別表1」 庄内地区の寺院と仏堂
町名 旧村名 江戸時代に
あった寺
現在ある寺 町 名 旧村名 江戸時代に
あった寺
現在ある寺
村櫛 村櫛 宝泉寺 随縁寺 白洲 白洲 受泉寺  
清傳寺 共正寺 大江寺 大江寺
南江寺   慈雲寺 慈雲寺
宝谷寺   平松 平松 平松寺  
海巌寺   ※泉龍寺  
※宗円寺   地蔵堂  
大日堂   呉松 呉松 宝珠寺  
庄和 和田 一徳寺   長楽寺  
清龍寺   林宗寺  
庄内 内山 宿廬寺 宿廬寺 ※曹洞院  
龍泉寺 龍泉寺 鹿島山  
真福寺   薬師堂  
東福寺   阿弥陀堂  
如意寺   深萩 呉松 量光庵  
※薬師堂   水出観音堂 水出観音堂
協和 細田 松林寺   舘山寺 堀江 舘山寺 舘山寺
地蔵堂   常在寺  
西 福聚寺   安福寺  
神 田 耕穏寺   満願寺  
乙君 医王寺   宝樹庵  
(長福寺)   普門堂  
 (1)「庄内の歴史Ⅰ」、「遠江風土記傳」「四国写八十八所」により作成
 (2)深萩町は、明治の初めまでは呉松町に属していたが、その後独立した。
 (3)※の3寺院は貧因等のため廃寺となった。

 多くの寺院の成り立ちは、各家の先祖は各家でお祀りし供養していたが、やがて同姓集団での先祖供養となり、本家筋の屋敷に設けられた仏堂が供養の場となった。近世(注2)の村の成立に伴い、どこの集団にも属さない場所に寺院を建設して、僧侶を住まわせて、複数の集団、同姓集団による共同の先祖供養の場をとしての寺院となり、村の構成にふさわしい形に先祖供養の場に改められたと言われている。
 徳川幕府は、慶長17年(1612)にキリスト教禁止令を出し、各家に仏壇を作らせてキリスト教の禁止をはかった。以降、僧侶が埋葬のことを行うようになり、死者があれば僧がきて戒を授け法名を与えて埋葬することになった。「全ての人はどこかの寺の檀徒にならなければならない」という檀家制度がつくられた。どの寺も自分の寺の檀徒はキリスト教でないという証明書(寺請証文)を出した。この証文は、結婚、移住、奉公、旅行などに必要とされた。江戸時代の寺院は、先祖供養・信仰の場であり、争論の仲裁の場、娯楽の場、他地域との交流の拠点、教育と学芸の場、家の序列の明示、知識の蓄積の場として神仏混合の形で神社と共に村の中心的役割を担っていた。
 庄内地区の寺院の創建は、協和町の長楽寺(天平勝宝元・749)(注1)、舘山寺町の舘山寺(弘仁元・810)、庄内町宿廬寺(文正元・1466)、呉松町の量光庵(文明5・1473)等を除いて多くの寺院は戦国時代末期から江戸時代初期(16~17世紀)となっている。
八柱神社拝殿に使われた大日堂
(写真1)八柱神社拝殿に使われた大日堂
 村櫛には、村の中心である「上の山」(注3)を囲むように、宝谷寺、宝泉寺、海厳寺、清傳寺、南江寺、の5ヶ寺と、今の八柱神社の境内に大日如来をお祀りした大日堂(写真1)が建てられていた。各寺院の創建は、宝谷寺を除き、寛文4年(1664)から宝永6年(1709)の間となっている。村の人口が300戸に満たない村に5ヶ寺の寺があったことになる。明治の初期に村の戸長から浜松県令に提出された「寺院廃寺現況調」によれば各寺院とも檀家は50~70戸位と記されている。寺院に関する資料が明治期に処分されてしまったため、詳しいことが分からないのが残念であるが、寺院について断片的にまとめたのが「別表2」である。

「別表2」 江戸時代にあった寺院・仏堂(村櫛村)
寺院名 本尊 創建年 寺の在った
場所
沿革
日照山宝谷寺 薬師如来 不明 八柱神社横
忠魂碑の所
伝承によれば上古は村櫛の湊崎にあったが、永正7(1510)年の大地震・津浪のため大破し漂流し、左の地に移る。
明治初期に宿廬寺に合併された。
西明山南江寺 千手観音 寛文12
(1672)
旧小学校校庭西側築山の北 寺料3石
明治初期に宿廬寺に合併された。
東明山宝泉寺 11面観音 寛文4
(1664)
旧村役場 代官岡井武太夫が菩提所として建てる。
寺領5石7斗
明治初期に宿廬寺に合併された。
白王山海厳寺 聖観音 宝永6
(1709)
上の山の西側 聖観音は正徳元住僧寒代作
寺領5石2斗7升
明治初期に宿廬寺に合併された。
西圓山
清傳寺
地蔵菩薩 寛文10
(1670)
旧小学校
校庭南端
貞享2(1685)応全が再興した。
寺領7石2斗7升
明治初期に宿廬寺に合併された。
大日堂 大日如来 延宝5
(1677)
八柱神社境内 古くは真言宗で舘山寺や伊目の大衆院との関係が深かったという。
明治初期に廃寺となったが、大日如来像は明治32年(1685)随縁寺の本尊として再興された。
旧堂は八柱神社の拝殿として使用された。
宗円寺 阿弥陀
如来
不明 不明 この寺極貧地で貞享3(1686)年2月につぶれる。
 ※「庄内史談」、(庄内歴史研究会発行)等の資料より作成

 5ヶ寺は全て庄内町の宿廬寺の末寺で、寺の本尊も観音菩薩、地蔵菩薩、如来等と各寺とも異なっている。創建当初は真言宗であったが江戸期に曹洞宗になった寺院も在るという。宝谷寺は、上古は村櫛南の先端の湊崎(注4)にあったが、永正7(1510)年の地震・津波のために大破し漂流したという。また、宝泉寺は代官岡井武太夫が菩提寺として建てられた。寺院の規模などは資料がなくてわからないが、どの寺院も檀家が50戸位と考えると、大日堂のような立派なものではなく、質素で小さな建物だったと思慮される。
 大日堂の本尊の大日如来は行基の作と伝えられている。廃寺前の建物は、茅葺きの屋根と赤い柱のお堂で、現在の八柱神社境内の手水鉢があるところには四本柱の釣鐘堂があったという。また当時あった門は神官宅へ移築されている。
 当初、大日堂は村櫛の嶋ヶ崎あったが、明応・永正の二度の地震と津波により堂宇は倒壊したようで、その後、室町時代末期から江戸時代の初期まで大日堂がどのような状態に置かれていたのか不明だが、延宝年間(1673~1680)八柱神社の場所に小堂が建てられ大日如来が祀られた。元禄2(1689)には領主の大澤基恒夫人の病気回復の報恩のために「大日堂」額の奉納や、さらに大澤家からの寄附や村人の浄財で堂の再建や、享保11(1726)には須(しゅ)弥壇(みだん)(注5)が奉納されたようである。村に寺々が出来るに及び、寺々が協力して盛んに供養や法要が行われたという。特に隣接の宝谷寺には大澤家よりの寄附[永代寄付、紺地金泥の普門品(注6)の巻物]のお墨付きが保存され、日常の供養が護持がされていたという。
 現在と違い科学が発達していない江戸時代の村人は、神仏にすがる気持ちが強く仏様を大切に敬い、日々の生活の中で大きな部分を占めていたと感じられる。

(注1) 長福寺、享保元(1716)当時の将軍吉宗の長男を長福様と呼んでいたため、全国諸寺院のうち長福寺の寺号を改めることになり、長福寺から医王寺に改めた。
(注2) 近世、戦国時代から江戸時代までをいう。
(注3) 上の山、この頃の上の山は単独の山ではなく、北に向かって小高い丘状となっていた。
(注4) 湊崎、村櫛荘時代の地名で、明応の地震・津波で海底に沈んだと思われる。
(注5) 須弥壇、仏像や厨子などを安置する壇。
(注6) 紺地金泥の普門品(ふもんぼん)、紺地の紙に金泥(金粉をにかわで溶いたもの)で書かれたもので、「観世音菩薩普門品」の略称。法華経の中でこれだけ出して詠むことが多い。観音経。