村櫛町紹介

村櫛の歴史8

もく(藻草)採りについて     松下 康文

 一昨年(平成23年)の9月、浜名湖上を台風が通過し、村櫛海水浴場横の歩道に大量の藻草が打ち上げられた。この藻草は「ショウブもく」(図2)と呼ばれて、科学肥料のない時代には田畑の肥料として利用されてきた。「もく採り」とは、浜名湖に生えている海藻を採ることであり、今回はこのもく採りと村櫛の人々との関わりについて述べる。

(図2)浜名湖における藻草の種類
種類 呼称 形状 わく
土質
場所
深さ
生態 備考 採藻
道具
はばも しょうぶも・おおべら・はばもく・ひらもく・おおば 8寸~1尺5寸
長いもの4~5尺
砂質の堅地 3~4m 春の彼岸頃発生、8月に採取、10月頃おわる。
暑くなると、根がくさる。
採藻量が最も多い ネジザオ
いともく まもく 2尺5寸 沼地 1尋半内外 1月頃発生。10月頃より翌3月頃まで採取。 採藻量、
少ない
ネジザオ
やなぎもく はるもく 沼地 2尋半 春に発生。暑くなってくると、根がくさる。
ネジザオ
にらもく こもく(はばもとこもくがまじりあっているのをまじりもくという) 1~3尺 沼地 浅瀬 春に発生。夏に枯死。 砂地の肥料として利く。
便所のオトシに利用する。
素手
あおさ
1尺 沼地 2m 4月から6月にかけて発育、盛夏に老成。
寒くなってくると、わかなくなる。
肥料として最もよく利く。
ガージラが付着する。
クマザラ
ぎんば
1尺 沼地 2~
3尋
四季を通じてあるが、盛夏に枯死することもある。 季節なく肥料とするに便利。 ネジザオ

藻草の形状比較図
藻草の形状比較図
「浜名湖における漁撈習俗I」より抜粋

 明応年間(15世紀の終わり頃)と永正年間(1504~1520)の地震・津波により浜名湖周辺は多くの土地が失われたという。時がたち海底に沈んだ土地(浅瀬)に藻草が茂ってきたので、湖底に沈んだ古代の土地に見合う湖水域を持海として、そこに生えている藻草をとるようになったと言われている。
 田畑の少ない村人は農業だけでは食べていけないため、もく採りや漁業で現金を稼ぎ生活を維持してきた。もくは自給自足としてよりも肥料としての商品価値があった。村にとってもくは生活の基盤であり、生活を支える共同利益として大切に守られてきた。特に村櫛村は他村に比べて広いもくの持海を持っていたため、周囲の村ともく場の境界やもく盗人(注1)及び他売禁止などの争いごとが絶えず、時には死人も出たことがあったという。
(図1)宇布見村村櫛村藻草海上境裁許絵図
(図1)宇布見村村櫛村藻草海上境裁許絵図
  「浜名漁協 所蔵」
 村櫛村のもくをめぐる争いごとの主なもの(もく採りの歴史は別表1)をあげると、寛文4年(1664)に、宇布見村(雄踏町)と境界をめぐって大きな争いが起きた。翌年、幕府は村櫛村の言い分を認め、「海上之庄境から新居洲崎一本松を見通す線を村櫛村の持海」とした「宇布見村村櫛村藻草海上境裁許絵図」(図1)を双方の村に下げ渡した。以降、村人はこの絵図を浜名湖の権利書として毎夜交代で「御絵図の番」をして一枚の絵図を大切に守り続けた。(絵図は浜名魚協村櫛支所に保管されている。)
 また、天和2年(1682)領主の大澤氏から、藻草は自領の利益になるとして藻草を他領へ売ることを禁止した「藻草他売禁止」(注2)の法度が出された。これにより藻草を他領へ売ることが出来なくなったばかりか、売り場を制限されたため藻草の価格は下がり、次第に村人の生活は苦しくなっていった。この法度を破ったとして寛政2年(1790)に、御法度を破らない旨を領主に誓うとした手形を村役人連名で出す事件まで起こっている。
 さらに、慶応4年(1868)3月、領主大澤氏から出された「御条目」(注3)には、他売禁止に加えて「越売停止」の項目が入っている。このことにより、村人はどん底生活に追い込まれ、安政の時代にはお救い米の施しを受ける程であったという。
 明治時代に入ってから、村人達はこの重い足かせをはずすべく、庄内8ヶ村等と他売禁止をめぐって訴訟を起こした。最初は敗訴をしたが、明治16年(1883)、大審院判決(現在の最高裁判所)で勝訴し、やっと商品としてのモク売りが自由になった。
 もく採りの方法は、浅瀬では素手やネジサオを使ったり、深いところでは船や、クマザラ、ネジサオを使ったりした。
 生活の糧(注4)であるもく採り場は大切に保全され、もくの種類にあわせ東西に二分され(注5)、藻草の採取期間は夏藻草(しょうぶもく等)は7月25日~10月10日、秋藻草(まもく)は10月10~20日~3月23日と決められており、特に10月の秋もくはボタモチといわれ家族総出で採りにいったという。
 明治22年(1889)には村櫛村漁業組合が設立され、モク場は暮らしの再生産を保障する大切なものであり、決まりを守ることが義務づけられた「海藻取締規約」(注6)がつくられた。
村人たちにとって農業を支えてきた大切なもくも、昭和30年代を境に歴史的な使命を終える。
 今回は村櫛村に関する事項を取り上げたが、各浜名湖周辺の村々も同じようなことが起こっている。

(別表1)村櫛におけるモク採りの歴史年表

年号 西暦 内要
永正年中 1504~1520 津波のため、.田畑が海底に没し、そこにモクが生えてくる。
寛文4年  1664 宇布見村と藻草場の境界をめぐって争う。
 〃 5年 1665 村櫛、幕府より「裁許絵図」をもらう。
天和2年  1682 領主大澤氏、他売(領外)禁止の御法度を出す。
延享4年  1747 モクを採ったかどで、村民責めを受ける。
寛政2年 1790 領主に、他売の御法度を破らないことを誓う。
 〃11年  1799 堀江村外6ヶ村と藻草場をめぐって争う。
文政6年 1823 山崎村と藻草場をめぐって争う。
天保12年 1841 庄内8ヶ村、他売禁止を領主大澤氏に願い出る。
明治2年 1869 藻草一件御窺書を出し、モクで生活してきたことを訴える。
明治4年 1871 モクの税金を納めたいと願い出る。
明治14年 1881 宇布見村とモク場の保全めぐって争う。
明治14年 1881 庄内8ヶ村との間で、他売禁止をめぐって争う。
明治15年 1882 村櫛村が敗訴。
明治16年 1883 一転して大審院判決で勝訴。モク売りの自由が公となる。
明治19年 1886 モク場の保全を願い、ウタセ網の禁止を県知事に請求する。
明治22年 1889 漁協組合設立。「藻草取締規約」を創定する。
明治36年 1903 村櫛村漁協組合設立。雄踏村と境界をめぐって問題起こる。
大正7年 1918 「藻草取締規約」を改正する。
※ 【浜名湖における漁労習俗 II】静岡県文化財保存協会発行から(一部加筆)

(注1) 「もく盗人(盗みもく)」、口開け前(決められた日より前)や他組合水域の藻草を無断で盗んで採藻することをいう。公然と盗藻に出かけたという。
(注2) 「藻草他売禁止」、天和2年8月、村櫛村村役人連名(庄屋・名頭・五人組頭)で領主大澤氏に手形を提出した。(庄内の歴史二から)
(注3) 「御条目」、領主大澤氏が各村々に出したもので、36項からなり、領内各村が守るべき事項が書かれている。その第10項に「村櫛村藻草他領江売候儀堅ク御法度ニ候其外村々共越売御停止ニ候条堅相守可申若相背ニおゐてハ可為曲事」と記されている。
(注4) 「生活の糧」、明治中期の村の戸数は約300戸余りのうち、約200戸がもく採りをしていた。
(注5) 「もく採り場の区分」、村櫛の船着場の水路から第三鉄橋を見通した線で東西に分けられていた。なお、4月~6月は育成時期として除かれた。
(注6) 「海藻取締規約」、明治28年7月29日制定、明治33年と大正7年改正され、昭和時代まで慣行されてきた。開始日(口明け)、モク場の指定、休業日や違反者に対する罰則(初犯の者は停業7日、違約金5円也」等)が決められていた。