村櫛町紹介

村櫛の歴史14

村櫛の寺院について(その2)    松下 康文

 今回は、明治初期に起こった廃仏毀釈(注1)の様子についてこの庄内地区(村櫛)を中心に述べる。
 慶応4年(1868年)4月、明治新政府は「王政復古」(注2)と「祭政一致」(注3)の理想を実現するため、神道国教化の方針を採用し、それまで広く行われてきた神仏習合(注4)(神仏混淆(こんこう))を禁止するなどの、「神仏分離令」を発した。なお、明治初年における宗教政策の動きは「表1」のとおりである。
 江戸時代後期、ここ遠州地方で国学(注5)が盛んになると、神を敬う機運に乗じて、これまで僧侶の下に位置づけされた神官たちが、仏教を排撃したと言われている。神官たちは遠州報国隊(注6)を結成して江戸まで行き、帰国すると、報国隊員の神葬祭や、村方の宗門人別帳よりの独立などを求める願書を浜松藩に提出した。この動きは庄内地区にも及び、堀江藩も神葬祭を公認するに至った。
 「庄内の歴史Ⅰ」に当時の村における寺院から離檀の様子について次のように書かれている。
 「明治3年9月、堀江藩で神葬祭を認めたため、村方の有志たちは次々に神葬祭を願い出て聞き届けられた。そこで10月21日、各自は本尊位牌を檀那寺へ預け、冥加料として一体につき銀一匁五分ずつを納め離檀をすることになった。10月下旬、役所よりの達しにより、寺々の本尊住寺を宿廬寺へ引き取り、汁物や建物、田畑を帳簿に記入して11月5日役所へ差し出した。11月下旬になって役所よりその汁物や建物を檀中へお下げ渡しになり、自由に売り払った。そして代金の十分の一を本山に納め、残りは檀中に渡した。」とある。
 このことから、寺院からの離壇が短期間のうちに実施された事が伺われる。ここに記されている「冥加料の銀一匁五分」とはこの時代でどの位の価値だったのか、指導者でない村人たちは時代の変化に大混乱したと思う。また簡単に宗旨替えが進んだのか詳しいことは分からない。
 さらに離檀に拍車をかけたのが、明治4年と8年の2回にわたる「上地令」(注7)により、各寺院は経済的打撃を受け、廃寺と無檀寺院の合併が続出し、この時、寺院の三分の一が減ったと言われている。特に打撃が大きかったのが、天台宗、真宗、臨済宗、時宗、浄土宗とされる。
 明治政府の目指した神仏分離令は神社の国家一元支配にあった。それは神社を介しての天皇崇拝意識の浸透であり、仏教排斥を意図したものではなかった。しかし結果的に廃仏運動と呼ばれる民間の運動が起こった。全国各地で神仏習合の廃止、神体に仏像の使用禁止、神社から仏教的要素の払拭などが行われた。祭神の決定、寺院の廃合、僧侶の神職への転向、仏像・仏具の取り壊し、仏事禁止、民間への神道強制などを急遽実施したために大混乱になった。この嵐は明治4年(1871)ごろ収まったが回復には長い時間がかかった。
 こうしてここ庄内地区は舘山寺をはじめ各村の寺院は宿廬寺など数寺を残し廃寺となり寺院の無い村が出来た。明治5年(1872)に各村の戸長から静岡県令に出された「寺院廃寺現況調」によれば、庄内地区で廃寺となった18寺院(呉松地区を除く)の資産( 什物(じゅうもつ) ・建物・田畑)の売却代金は、各寺院の借財の返済に充てられた旨が記されている。村櫛でも5ヶ寺の全てが庄内町の宿廬寺に合併され寺が無くなった。各寺からの離檀戸数は、南江寺48戸、清傳寺47戸、海厳寺77戸、宝泉寺57戸、宝谷寺0戸で、合計では229戸になる。
 さらに5ヶ寺以外の大日堂も、本尊の大日如来や、什器の類まで全てが売却され、一部は古道具屋にゆだねられた。大日堂の宝物を預かっていた宝谷寺住職石門和尚が、せめて本尊の大日如来だけでも村櫛に残したいと奔走、私財を投げて買い取り村櫛に残そうとしたが、それも許されなかった。しかし本寺の宿廬寺が須弥檀と共に引き取り本堂に仮安置したため、本尊だけは庄内地区に残こることになった。
(写真1)壊された石仏(村櫛町 随縁寺)
(写真1)壊された石仏(村櫛町 随縁寺)
 廃寺に伴い寺にあった墓石や石仏などが浜名湖に捨てられたという。今も村櫛町の随縁寺(明治時代に再興)や庄内町の宿廬寺の境内には各地から集められた顔などが欠けた数多くの石仏が置かれている。(写真1)また、大日堂に伝えられていた600巻の大般若経600巻が一巻50銭にての300円で売り払われたという。この大般若経は現在菊川市の妙照寺にあり、県の文化財に指定されている。
 なぜここ庄内地区においてこんなにまで廃仏毀釈が浸透してしまったのか。浸透の理由については、ひとつに政府を意識しての支配者(大澤氏)の意図によるものか、それとも村人たちの経済的理由からか、あるいは神主層の指導か、また、経済的に恵まれていた僧侶たちへの反発なのかなど、いろんな要因が考えられる。しかし、このことは日々生活していく村人たちには大きな生活の変化であったと思う。さらに廃仏による文化財や資料の散逸は、郷土にとって大変残念なことである。

「表1」明治初年の宗教政策の動き
年月 西暦 記事
慶応3年10月 1867 ・大政奉還される。
慶応3年12月 1867 ・明治政府が王政復古の大号令を出す。
慶応4年2月 1868 ・遠州報国隊が結成される。
慶応4年3月 1868 ・明治政府が神道の国教化をめざし「神仏分離令」を出す。
明治元年11月 1868 ・浜松藩に神官が神葬祭の許可願を提出し、離壇運動が起こる。
明治3年9月 1870 ・堀江藩は神葬祭を公認する。
明治4年 1871 ・庄内の廃寺が続出する。
明治4年 1871 ・これまで認められていた寺院と神社の領地(寺社領)が上知令により没収された。
明治6年 1873 ・無檀・無住寺院の合併が続出する。無住寺院は廃止された。

(注1) 「廃仏毀釈」、明治初年、政府の神道の国教化政策に基づいて起こった仏教の抑圧・排斥・破壊運動をいう。
(注2) 「王政復古」、明治新政府は慶応3年12月、江戸幕府を廃絶し、同時に摂政・関白等の廃止と三識(総裁、議定、参与)の設置(三職制度は翌年に廃止され、太政官制度に移行した)による新政府の樹立を選言した政変をいう。
(注3) 「祭政一致」、祭祀と政治とが一元化、一体化していること。祭政一致の祭は、「まつり」であり宗教を意味する。政は「まつりごと」、政治を意味する。
(注4) 「神仏習合」、奈良時代から続いている土着の信仰と仏教信仰を折衷して、一つの信仰体系として再構成(習合)すること。
(注5) 「国学」、日本の古典(古事記、日本書紀、万葉集)を研究することで、儒教や仏教が渡来する以前の日本人の考え方を明らかにし、日本人の生き方を見いだそうとした学問。
(注6) 「遠州報国隊」、慶応4年(1868)2月、討幕軍の東下にあたって、遠州浜松・磐田を中心として結成された神官層主体の民兵隊。隊員数306名のうち、江戸へ従軍した者は90名。
(注7) 「上地令」、江戸時代に認められていた寺院と神社の領地が廃藩置県に伴い、地租改正により全ての土地に地租を賦課する原則に基づき、寺社領を含めた全ての土地に対する免税特権をはきすることを目的としていた。