村櫛町紹介

村櫛の歴史5

村櫛荘(むらくししょう) のこと

図1:遠州の荘園・御厨『荘園分布図』上巻より
図1:遠州の荘園・御厨『荘園分布図』上巻より
図2:村櫛荘の位置(静岡県史通史編2より)
図2:村櫛荘の位置(静岡県史通史編2より)
 中世(鎌倉時代)、私たちが住んでいるこの辺りは「村櫛荘」と呼ばれていた。(図1)のように浜名湖周辺は荘園や 御厨(みくりや) (注1)が多く存在した。これらの多くは奈良時代から鎌倉時代に出来たものが多いが、村櫛荘がいつ出来、誰によって寄進されたものかはっきりしていない。
初期(8世紀)の荘園・御厨は貴族や寺院が自力で田畑を開墾して得ていたが、10世 紀以後は地方の地主(小土豪)達が、支配者から税や自分達の身を守るために上流貴族や大きな寺社に、土地を寄進して成立するようになっていった。村櫛荘は寄進された荘園のようである。
 村櫛荘は正中2(1325)年には最勝光院(注2)の荘園であったが、後に宇多上皇が東寺に寄進したために東寺(注3)のものとなった。
 東寺に伝わる文書(注4)に、「西郷・大村櫛・昊(呉)松・和地・伊佐地」という郷名が出てくることから、荘園の範囲は現在の庄内半島・和地・伊左見地区まで(図2)と言われている。
 また、当時の荘園の支配関係(図3)は、上流貴族や社寺の荘園領主が本家、本家の下に位置づけられた領家側と、幕府から任命された地頭側とに分かれ複雑なものとなっている。
 荘園・御厨からは年々、一定量の米や布あるいは特産物が京の荘園領主や伊勢神宮などに送られていた。嘉暦4(1329)年作成の東寺文書によれば、村櫛荘の年貢米は100石だが、現実には年額60石で、地頭方が40石、領家方が20石の年貢を負担することになっている。東寺文書には代官達に対しての本家からの年貢米の催促に冠する文書がたくさんあることから、年貢米等がスムーズに納められていなかったことが伺われる。南北朝時代の応安元(1368)年になると足利尊氏は荘園の半分を武士に与えるという「 半済(はんぜい) 法令(ほうれい) 」が出され、守護の今川氏や斯波氏の家臣が半済代官に任命され、年貢の半分(実は半分以上)を押領するようになる。さらに明徳元(1390)年には代官が20石をたった5貫文で本家米を請負うようになっていく。
 次に現地の荘務を行う代官等の名前をみると、この地方の呼び名の元になった、村櫛氏(注5)の後裔と思われる「村櫛惟家」や「左衛門尉氏家」、斯波氏の家人である「堀江入道」や年貢米の未納者として「大沢・呉松四郎」という在地武士の名前が出てくることは興味深いところである。
 8世紀から続いていた荘園という貴族・社寺土地所有のシステムも、応仁の乱(1467)が起こると荘園としての実態は失われ、この庄内地区も永正元(1505)年に大沢氏の所領となった。

図3 村櫛荘の領主と代官(村櫛荘の領有関係図)

(注1) 御厨、伊勢神宮の荘園のこと
(注2) 最勝光院、平清盛の義妹で後白川法王の妻となった (けん) 春門院(しゅんもんいん) (平滋子)のゆかりの寺。滋子の願いで承安3(1173)年に建てられた寺で、後白川法王が院政を敷いた御所(法住寺)内にあった。
(注3) 東寺、この寺の正式名称は「教王護国寺」といい、延暦13(794)年に平安京鎮護のために、羅生門の東に東寺、西に西寺を建立したと伝えられている。西寺は現存しない。
(注4) 東寺文書、東寺に伝来した.古代から近世にかけての文書。文書には東寺百合文書、教王護国寺、東寺文書等がある
(注5) 村櫛の名前が史料に現れるのは鎌倉時代のことで、鎌倉時代の史書「吾妻鏡」の建長3(1251)年の項に「 村櫛三郎兵衛尉(むらくしさぶろうべえのじょう) 」と言う武士が出てくる。