村櫛の歴史4
藤原共資と志津城 松下康文
写真1:
「志津古城跡」の標柱 |
志津城はその昔志津三郎の築く処と言い伝えられているが、今からおよそ1000年前の正暦年間(990〜994)に、
藤原共資について井伊家伝記(注1)によれば、「大織冠藤原鎌足12代の子孫で、備中守(藤原)共資公は
遠江国を巡検して毎年禁裏へ年貢を納める。数年経ち、遠州一国を預かり村櫛の入江のところにある城に住んだ。」(注2)とある。明応地震(1498)以前の村櫛は、浜名湖を西側に望み、平野が南側に広がり、館(志津城)からの眺める景色は大変良いものだったに違いない。
写真2:
藤原備中守共資之墓 |
昭和30年、荒廃していたこの地を整備し標柱・庫裡などを建立し、村内に「共正寺」という寺をつくり、信者達がお祭りをした。子どもの頃、お祭りの日にお椀を持って甘酒をもらいにいったこと、この公園へ子どもとの遠足など懐かしい思い出として残っている。しかし現在の山頂公園は残念ながら荒れたままになっており立ち入ることも出来ない。
次に彦根藩主の「井伊家」との関係であるが、引佐町の龍潭寺の近くに「井伊氏祖共保公出生の井戸」というところがある。男子が居なかった共資が井戸そばに置かれていた赤子を我が子(
共資、共保が住んだ志津城は、共保が井伊谷に移ってから無住となってしまったが、後年この地に住んだ豪族の堀江氏、大沢氏等が城として16世紀まで利用されたと伝えられている。
以上藤原共資・志津城について述べたが、共資については伝承としてしか伝わっておらず、また志津城跡も無くなってしまっており、資料が乏しくわからないところが多く断片的なものになってしまったが、郷土に伝わるものとしては大変興味深いものであるので今後も調査を続けていきたい。
(注1) | この
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(注2) | 古藤原共資は、遠江国の国司としてきたとの説もあるがここでは巡検使との説をとった。 | |
(注3) | 井伊氏については引佐町史の上巻で「井伊氏の発祥」と「井伊氏系図」の項に詳しく述べられている。 |