村櫛町紹介

村櫛の歴史4

藤原共資と志津城  松下康文

写真1:「志津古城跡」の標柱
写真1:
「志津古城跡」の標柱
 村櫛町の東、頭脳公園入口道路脇(西側)に「志津古城跡」の標柱(写真1)が建っている。この付近は「城山」と言われ、高さ25メートル、周囲600メートル、山頂の広さは3アールほどの小丘であったが、明治時代に村の耕地造成のために山を崩し湖面を埋め立てたため平地にとなっている。
 志津城はその昔志津三郎の築く処と言い伝えられているが、今からおよそ1000年前の正暦年間(990〜994)に、 藤原(ふじわら) 共資(ともすけ) が京都からこの地に来て住んだという。山頂の広さを考えれば小さな館程度のものと思われる。
 藤原共資について井伊家伝記(注1)によれば、「大織冠藤原鎌足12代の子孫で、備中守(藤原)共資公は 公家(こうけ) にて天皇の命令で遠州村櫛の郷に住む。
遠江国を巡検して毎年禁裏へ年貢を納める。数年経ち、遠州一国を預かり村櫛の入江のところにある城に住んだ。」(注2)とある。明応地震(1498)以前の村櫛は、浜名湖を西側に望み、平野が南側に広がり、館(志津城)からの眺める景色は大変良いものだったに違いない。

写真2:藤原備中守共資之墓
写真2:
藤原備中守共資之墓
 前回(村櫛の歴史3)、紹介した御山塚の山頂に「藤原備中守共資之墓」(写真2)という標柱が庫裡の裏に建っている。建立者として日蓮宗の法雲寺(浜松市)住職等の名が標柱に刻まれている。なぜ日蓮宗と関連があるのか、それは共資が日蓮(日蓮宗の祖)の遠祖であると言われているからである。
昭和30年、荒廃していたこの地を整備し標柱・庫裡などを建立し、村内に「共正寺」という寺をつくり、信者達がお祭りをした。子どもの頃、お祭りの日にお椀を持って甘酒をもらいにいったこと、この公園へ子どもとの遠足など懐かしい思い出として残っている。しかし現在の山頂公園は残念ながら荒れたままになっており立ち入ることも出来ない。
 次に彦根藩主の「井伊家」との関係であるが、引佐町の龍潭寺の近くに「井伊氏祖共保公出生の井戸」というところがある。男子が居なかった共資が井戸そばに置かれていた赤子を我が子( 共保(ともやす) )として育てた。共保は成人してから村櫛から生まれ故郷である井伊谷に移り住み、井伊氏と名乗って井伊氏の始祖となったと言われている。(注3) このあと井伊氏は、地方の豪族として幾多の苦難の時代を乗り超え、16世紀になり直政(1561〜1602)が登場してくる。
 共資、共保が住んだ志津城は、共保が井伊谷に移ってから無住となってしまったが、後年この地に住んだ豪族の堀江氏、大沢氏等が城として16世紀まで利用されたと伝えられている。
 以上藤原共資・志津城について述べたが、共資については伝承としてしか伝わっておらず、また志津城跡も無くなってしまっており、資料が乏しくわからないところが多く断片的なものになってしまったが、郷土に伝わるものとしては大変興味深いものであるので今後も調査を続けていきたい。

(注1) この 文書(もんじょ) は、引佐町の龍潭寺所蔵されており、江戸時代中期、当寺の住職がこれまでの伝承と記録によって記述されている。当地と井伊家の関係を知る上にも大切な記録である。
(注2) 古藤原共資は、遠江国の国司としてきたとの説もあるがここでは巡検使との説をとった。
(注3) 井伊氏については引佐町史の上巻で「井伊氏の発祥」と「井伊氏系図」の項に詳しく述べられている。