井伊直虎ゆかりの地紹介
ご存知ですか?ここ村櫛町には「直虎ゆかりの地」が2ヶ所あります
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- 志津城跡 (井伊家の始祖共保が青年期を過ごした城)
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平安時代の正暦四年(993)に藤原氏の流れを引く
藤原 共資 が勅命(天皇の命)により遠江国に下り、村櫛の志津城(館)を築き住んだと伝えられています。
共資が村櫛にきた事情については、国司として赴任した、中央で望みを失い地方に下った、勅命により遠江国を領し志津城に住んだなど諸説があります。また、共資が当時の国府の磐田市見付でなく村櫛に住んだ理由は、ここ浜名湖の景色が気に入ったからとも言われています。
共資の子、共保の出生についても、共資の子として村櫛に生まれた、井伊谷に生まれた、井伊谷の井中より生まれた後共資の養子となったなど諸説があります。
共保は共資の子供としてこの城に住んでいましたが、共資が亡くなると幼い頃育った井伊谷が忘れられずに井伊谷に移り、井伊氏の始祖となりました。後年、志津城は今川と徳川との戦いの際に大澤氏がこの城に籠もったとの記録が残されています。
志津城は高さ25メートル、周囲600メートル、山頂面積3アール位の丘の上にありました。しかし、明治36年、村民の悲願であった耕地造成のために城山を崩して、浜名湖面を埋め立てたために失われてしまいました。その経緯を記した記念碑が昭和32年に建てられました。
- 藤原共資公の石碑 (村櫛村開創者藤原共資公顕彰碑)
藤原共資公の石碑 御山塚入口
藤原共資公の石碑
ここからは浜名湖が一望出来ます。村櫛小学校の校歌に「白ふじにおう志津城山の」と歌われています。かってここには大きな藤棚があり、白藤が美しく咲いていたということです。校歌の作者は「今は共に無くなってしまった白藤と藤原共資公の史跡と併せ、山から東方に見える富士の山を想い」作詞したとのことです。
また、この場所に古墳(円墳、6世紀後半)があったことから「御山塚」と呼ばれています。古墳は明治40年12月に村人有志により発掘が行われ、五鈴鏡、金環、銀環出土しています。これらは現在東京国立博物館に保存されています。
残念ながら、古墳の規模、発掘場所などはっきりしていませんが、出土品からこの地方一帯に大きな力を持っていた豪族の墓と思われています。村櫛が古代から浜名湖南部の広い耕地を背景にこの地方の中心であったと考えられています。
(松下 康文)
【 アクセスマップ 】
★ 志津城跡
井伊家の始祖が青年期を過ごした城
※「井伊直虎ゆかりの地」の赤い旗が目印です。
★ 藤原共資公の石碑
村櫛村開創者藤原共資公顕彰碑
※石碑までの入口は「井伊直虎ゆかりの地」の赤い旗が目印です。
※ ピンをクリックすると説明が表示されます。
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